犬のフィラリア(犬糸状虫)症の予防については、既に他のページで解説済みではあるが、不幸にしてフィラリアに罹ってしまった、そして症状も発現してしまったワンコに対してどういった治療をしていったら良いのであろうか。
フィラリア予防のおさらいであるが、犬のフィラリアは蚊が吸血することによって感染し、心臓に素麺のような線虫が寄生するという循環器疾患である。
フィラリア症の初期症状は、何となくであるが、元気食欲の減退と体重減少、毛艶の悪化が生じるという漠然としたもの だ。 重症化すると咳が出たり、強い運動に耐えられなくなる、呼吸が苦しそうになる、 腹水が溜まってくる、 といった症状が現われてきて、そのうちに興奮すると卒倒したりするようになり、呼吸循環不全で窒息に近い感じで死んで行く。 これが慢性フィラリア症という奴である。
慢性があれば当然急性も存在する。 フィラリアがその寄生数の増加や、急激な気温の変化などの要因で、本来の寄生部位である右心室から肺動脈にかけての部位から、右心房や大静脈洞に移動する と、激しい血液の乱流によって赤血球の崩壊(溶血)、血色素尿(ヘモグロビン尿)の排出、急激な右心不全の発現によって、急激な元気の消失、食欲の廃絶、 呼吸困難、心拍の亢進といった症状が現われ、手をこまねいていると1週間から2週間で死亡してしまうというのが急性フィラリア症である。
急性フィラリア症の唯一の治療法は、左頸静脈からアリゲーター鉗子という先端に物を掴む機能を備えた細長い器具を挿 入して、大静脈洞から右心房のフィラリア虫を摘まみ出すという芸術的な手術しかないのである。 そして、逆を言えば、フィラリアの吊り出し術が成功すれば、その犬は劇的な回復を見せて、みるみる元気になるのだ。 私が今まで吊り出し術をやって成功した症例ではほぼ全例に劇的な改善が見られた。 ただ、症例によっては成虫の吊り出しがうまくいったのにもかかわらず予後不良という事例もあるやに聞く。
それに対して、慢性フィラリア症の治療は、もっぱら内科的に行なわれる。 外科的にフィラリアを吊り出そうとすると、フレキシブルアリゲーター鉗子にレントゲン透視装置、それに高度な手術手技が必要になるのだ。 それにずうっとレントゲン透視装置を使って手術をやるとどうしてもエックス線の被爆量が増えて、獣医師や従業員の健康にも悪い。 私はフレキシブルアリゲーター鉗子もレントゲン透視装置も持ってはいるが、慢性フィラリア症のフィラリア吊り出し術は正直一回もやったことがない。
慢性フィラリア症の内科療法では、フィラリア虫の駆除は最近あまり行なわれなくなっている。 それでもどうしてもと言われる気の短い方のために、お薬だけは備えているのだが、フィラリア成虫駆除薬は砒素を含んだ薬である。
この駆除薬を注射すると、右心室から肺動脈にかけて寄生しているフィラリア虫が徐々に死んでいくので、1ヶ月から1ヵ月半を目途とした余程厳密な運動制限をかけて置かないと、死んだ虫が肺動脈の要所に詰まって犬が急死することがあるのだ。
であるから、私は余程強く要求されない限り砒素剤によるフィラリアの成虫駆除はやらないことにしている。 で、具体的にどうしているかと言えば。
犬のフィラリア症の疑いのある症例が来院してきたら、まず血液検査でフィラリアが寄生しているかどうかを明らかにすることから始めなければならない。 ここ数年は抗原抗体反応を使ったフィラリアの検出キットが普及していて非常に便利になっている。
少し薄いですが、上のキットでは中央の窓に青い線と赤い線が2本現われています。 これはフィラリアに感染しているよということです。 下のキットでは青い線が一本だけ現われています。 フィラリアに罹っていませんよということなのです。
で、フィラリアに感染している場合には、さらに血液検査で赤血球数白血球数、貧血のあるなし、肝臓機能、腎臓機能を評価し、胸部レントゲンで心臓の変形や肺動脈の病変のあるなしを評価し、心電図検査でやはり心臓の変形、不整脈のあるなしなどを調べる。
なお、腹水が溜まっている場合には、腹腔穿刺によって腹水を採取し、それがフィラリア症によって貯留したものかどうかを評価する。
慢性フィラリア症の管理に使用する薬で最も重要なものは、抗血小板作用薬である。 これを少しずつ、血液の血小板の作用を微妙に阻害して血栓が出来ない程度に毎日投与するのであるが、考え方としては、右心室から肺動脈にかけて寄生してい るフィラリア成虫が、血管の内膜に常にズリズリと摩擦を繰り返して、そこに血液の凝塊を形成し、その固まった血液が肺動脈の末端に運ばれて栓塞をすること によって肺の血管がひどく痛んで肺機能の低下が生じることを防ぐということである。
軽いフィラリア症ならば抗血小板作用薬単独の投与でも結構状態が改善することが多い。
しかし、いろいろな症状が発現して来院して来ている犬の場合、抗血小板作用薬単独では症状のコントロールがうまく行かないことも多い。
そんな症例に対しては、出て来ている症状に合わせてその子に対する特別メニューを考えなければならない。
具体的には、呼吸が苦しい子には気管支拡張と少し弱めの強心作用を有する薬を使うし、肝臓の状態が悪くなっている子には強肝剤を使用する。 また、腹水が溜まっていたり、腎機能が障害されている子には利尿剤を使用する。
最初に使う気管支拡張剤の強心作用ではいまいち物足りない症例も確かに存在する。 そのような場合にはより強力な強心薬の出番である。
なお、腹水の症例に対してはなるべく利尿剤を使用してこれを排出させるようにしている。 確かに針でお腹を突いて腹水を物理的に抜いてやると一時的には呼吸が楽になったりするのではあるが、長い眼で見ると腹水の中には生体に貴重な蛋白質も含ま れており、物理的に何回も抜くことにより徐々に全身の状態が悪化するように感じられるからである。
従って、腹腔穿刺で腹水を物理的に除去するのは、余りにも大量の腹水によって胸腔までが圧迫されて呼吸困難に陥っているような子に緊急避難的に行なう場合に限っている。
なお、肺病変がひどくて、細菌の二次感染が生じているような子には、抗生物質を投与するし、全身の状態がいよいよ悪いような子には短期的に副腎皮質ホルモンを投与して、抹消循環の改善を図ることもやる。
そうして何とかフィラリア症の症状がコントロールされるようになったら、必ずやらなければならないのが、フィラリアの感染予防である。
いくらフィラリア症の症状がコントロールされても新たな虫が心臓に加わればそれが症状の悪化要因になるからである。 逆に新たなフィラリア成虫が心臓に現われなくなれば、今現在心臓に居るフィラリア成虫は3年から5年で寿命が尽きて一匹ずつ消失していくので、3年後から 5年後にはその犬はフィラリアのいない体に戻れるわけである。
そうすれば、幾分かの後遺障害は残ることがあっても、以後は心臓や肺の不具合でひどく苦しむことはなくなるであろう。
既にフィラリアに感染してしまっている子にフィラリア予防をしようとすると、ショックが生じる場合があるので、 ショックを起こさないように副腎皮質ホルモンで前処置をすることが不可欠になる。 ちゃんと基本どおりにやれば、ほとんどの子はうまく予防が出来るようになるものである。
どんな病気にも段階というかステージというか、治療によってこちらに戻って来れる段階と、いくら治療してもあちらの世界に行ってしまうターニングポ イントという奴が存在すると思う。 正直個々の症例でその転回点の見極めは非常に困難ではあるが、獣医の私としては常に何とかしようと頑張るしかない。
不幸にして慢性フィラリア症で、薬石効なく死亡してしまう症例の前では、予防出来たのに何で?とクライアントを厳し く責めたくなるのではあるが、なるべく自身の感情を抑えて、「次回から犬を飼われる場合には、この教訓を生かして必ずいろいろな予防をきちんとやってくだ さい。 お願いします。」 とお伝えするようにしている。