犬猫人のような哺乳類の心臓の構造は、左心房左心室、右心房右心室の4室に分かれていて、左心房と左心室の間には僧帽弁、右心房と右心室の間には三尖弁という弾力性のある膜で出来た弁があって、血液の逆流を防いでいる。
僧帽弁閉鎖不全症(MI)とは、左心房と左心室を隔てている僧帽弁が、加齢とか遺伝によってそのコラーゲン繊維を 失って、正常に閉じなくなり左心室から左心房への血液の逆流が生じることによってうっ血性心不全になってしまう病気であり、別名を僧坊弁逆流症(MR)と もいう。犬の心臓疾患の中でもっとも多発する病気であり、犬の心臓疾患全体の約8割を占めると言われるくらいである。
僧帽弁閉鎖不全症になりやすい種類というのは確かに存在する。 犬猫では圧倒的に多いのは犬の方で、しかも小型犬に多い。 私の動物病院でMIで治療している種類としては、マルチーズ、シーズ、トイプードル、キャバリア・キングチャールス・スパニエル、ヨークシャー・テリア、 およびそれらの雑種たちが多く、中型犬以上のサイズでは日本犬の雑種で結構多く見られる。中にはエアデールテリアが2頭いたりする。
僧帽弁閉鎖不全症の初期症状はなんと言っても咳である。 これは、肺から酸素交換を済ませて肺静脈を通り左心房に 戻ってきた血液が、いったん左心室に入ったものの、僧帽弁が閉じ切らないためにここで逆流が生じて血液がうっ滞し、薄い壁の左心房が大きく拡張、さらに肺 静脈の圧が上昇し、最後には肺の血圧が上昇、そのために肺胞の毛細血管から血液の液体成分が肺胞の本来空気が入っている部分に染み出して、肺水腫という状 態になってしまうためにその水分を体外に排出しようとして咳が生じるものなのである。
僧帽弁閉鎖不全症によって生じる咳は、夜間とか犬が興奮した時、あるいは首輪にリードを付けて散歩中犬がリードを強 く引っ張った時に飼い主に認識されることが多い。 中には「毛が咽喉に引っかかって」と表現される飼い主さんも中にはおられる。 夜になると吐くという主訴で来院される場合もある。これはよくよく様子を聴き取っていくと、散々咳き込んだ末にえずいて吐き気まで生じる形を取っているこ とがある。
最初は軽い咳で済んでいたものが、徐々に症状が進行していくと、咳の回数やその程度が段々ひどくなっていく。これは肺高血圧症の程度がひどくなって常時肺水腫が生じるようになるためである。
また、心臓で血液の逆流が生じるということは、前を向いて進んで行く血液の量が減少していくということであるので、 全身の循環血液量が少なくなっていって、身体は常に酸欠状態になっていく。そうなると、少なくなった循環血液量を確保しようとして、自律神経のうち交感神 経が常に興奮した状態になっていって、心臓が常に無理をして早く強く拍動するようになっていく。
さらに進行すると、興奮した時や運動時など身体が酸素をたくさん必要とする時に倒れるようになる。 その時に舌の色を見ると紫色になっている、いわゆるチアノーゼという状態になっているはずである。
循環不全と肺水腫が常態化し、苦しくなると、犬は横になって休めなくなり、前足を少し拡げたお座りの姿勢を保って、苦しそうな呼吸を続け、夜も眠ることが出来ないことになる。
病気で死ぬ時には、どんな病気でもそうではあるが、この病気の最後はとにかく苦しそうである。
僧帽弁閉鎖不全症の進行は、その個体によっていろいろではあるが、一般にゆっくりと進行するものである。 しかし、時によると、僧帽弁がひっくり返らないように心室側から引っ張っている腱索というひも状の組織が突然断裂することがあり、そうなるとどんな治療を 施しても功を奏さずに3日くらいで死に至ることがある。
また、歯周病菌などが感染して生じるところの細菌性心内膜炎が併発することもあり、そうなると、左心不全が重篤化したり僧帽弁閉鎖不全症の進行が早くなったりする。
さらに、過去に一例だけ経験したことであるが、逆流によってパンパンに膨れ上がった左心房が破裂することがある。 そのために心臓を包んでいる心膜の中に血液が充満して心タンポナーデという状態になり、心臓がうまく拡張収縮出来なくなって犬が大変苦しむことが起きるこ とがある。
僧帽弁閉鎖不全症の診断は、まず入念な聴診で心室が収縮する時の逆流音を確認することから始まる。 咳や心臓性の発作疑いで来院した動物の聴診を念入りにすることはもちろんであるが、この病気は症状が発現していない早期の状態から必要な投薬を始めること により少しでもその進行をゆっくりとしたものにすることが期待できるので、ワクチンやフィラリア検査などの来院の機会を捉えてなるべくこまめに犬の心音を 評価することが大切である。
そうして、中高年の主に小型犬で、昨年聴こえてなかった収縮期性心雑音が聴こえるようになった場合、僧帽弁閉鎖不全症がかなり高い確率で予想される旨クライアントに説明して、詳しい心臓の検査を行なうことになる。
で、どんな検査かというと、胸部レントゲン検査、心電図検査、心エコー検査の3つである。
胸部レントゲン検査では、心臓の変形とか大きさの評価、肺野の映り方から肺水腫が存在するのかどうかを判定し、心電 図検査では、不整脈が存在するのかどうか、心拡大が存在するのか、存在するのであればそれは左心系なのか右心系なのかということが判るのである。 そして、心エコー検査では、カラードップラーという機能を備えた超音波断層撮影装置を持っているので、これで実際に僧帽弁において逆流が生じているのかど うかがはっきりと証明出来るのである。
そうして、これらの検査によって、僧帽弁閉鎖不全症が存在するのかどうかと、その程度がどの程度のものであるかが大体判明するのである。
僧帽弁閉鎖不全症の治療法は、今現在では内科的に症状の発現をコントロールして、出来れば進行を遅らせてやるということが主流である。
外科的に弁を再形成させるとかいう根本的な治療法は、ここ数年、日本全国で数件の動物病院で成功例が報告されてきて おり、今後はその件数も増えてくるものであると思う。 しかし、体外循環の設備や技術だけでも莫大な費用がかかるであろうから、僧帽弁閉鎖不全症の治療として手術が主流派になることは当分はないであろうと考え られる。
ただ、私も自分のクライアントが手術を希望されるのであれば、紹介する心積もりは持っている。
で、実際に内科的治療法とはどうやるのかといえば。
まだ咳も出ていない、臨床症状が明らかでない僧帽弁閉鎖不全症の場合、症状は出ていないにしても体内では既に心臓に 無理がかかりつつあって、それを身体が持っている予備力で何とか無症状に抑えていると考えられるので、ACE阻害剤と呼ばれる薬剤を気長に服用させること から始めるのだ。
ACE阻害剤の働きとしては、心臓から下流の血圧を低下させて、圧の勾配を作ってやり逆流を防ぐこと。 交感神経興奮という短期的には心臓の働きを強くしてくれるのであるが、長期的には心臓が疲弊して症状悪化の原因になる状態を改善することが期待され、心臓 が無理をしないことによって、病気の進行がゆっくりになるとされている。
少し咳が目立つようになった症例でも、ACE阻害剤単独で咳が出なくなってうまくコントロールされるようであれば、ACE阻害剤単独投与でしばらくは時間が稼げると思う。
ACE阻害剤を服用させても咳が出るようになった症例では、ACE阻害剤に加えて、利尿剤を単味で、あるいは2種類組み合わせたり、血管拡張作用薬を組み合わせたりして咳をコントロールする。
僧帽弁閉鎖不全症で症状が出て来ている犬には、強い運動は厳禁である。また、食べるものでも、ナトリウムは血圧を上 昇させて症状が増悪するので、塩分を控えなければならない。 具体的には普通のドッグフードのような一般食を与えて人間の食べ物をやらないようにすればオーケーなのだが、より症状が進行して厳密な減塩食が必要になっ た子には、心臓疾患用減塩処方食を処方するようにする。
僧帽弁閉鎖不全症の子が日々の診療で来院した時に聴診して、頻脈(心拍数が多くなっている状態)が著しい時には、ジ ギタリス製剤を使用することもある。 ジギタリス製剤は、心筋の収縮力を増大させると共に脈拍数を少なくする性質を持っているので、心筋が休みを取る時間を稼いでくれる効果が期待できるのであ る。
急に肺水腫が悪化して心不全状態になった子については、救急疾患扱いで点滴用静脈カテーテルを留置して、シリンジポ ンプという装置を用いて、サイクリックAMPというお薬を持続的に静脈注射してやる。 そんな子には同時に温度、湿度、酸素濃度を完璧にコントロールしたICU装置に収容して酸欠状態から救ってやらなければならない。
また、頻繁に心臓性発作が生じるに至った子については、ニトログリセリン舌下錠を緊急時のお守りとして持っていただくようにしている。
治療がうまくいっている僧帽弁閉鎖不全症の場合、治療薬の処方の頻度は、必ずしも一週間にする必要はなくて、二週間ないし長い子では四週間毎の処方でいっている子も多い。
僧帽弁閉鎖不全症の管理の目標は、なるべく犬に症状が発現する前の早期に病気を発見すること、発見した場合には、犬 がその病気で苦しまないように終生管理して、少なくともその犬が僧帽弁閉鎖不全症を直接の原因として死ぬことがないように、出来れば老衰で亡くなるまでう まくこの病気と付き合うことが出来るように持って行くことである