簡単な外傷の縫合から、内臓外科、腫瘍摘出、血管外科に至るまで、さまざまな外科手術において使用されるのが、各種の縫合糸である。
そのうち体表の皮膚を縫合するものを除いては、ほとんどの縫合糸が永久的に体内に残されることになる。
そこで、とかく見過ごされがちなこれら縫合糸の有効性と安全性について、私の知りえる限りの知識 (大したものではありません)でもって検証してみたいと思う。
何故私が縫合糸に着目するようになったかというと、動物病院開業以来今まで11年間に少なくとも3件の縫合糸によるトラブルを目にしたことによる。 そのどれもが医療用の絹糸、あるいはカットグットと呼ばれる獣腸線によるものであった。
医療用絹糸には、染色してない縒り糸と脱脂して編んでいるブレードシルクとの2種類があるが、トラブルの原因になっ ていたのは全て縒り糸の方であった。 カットグットは動物の腸を細長く切って、クロム酸で処理したものであり、いずれも人の医療用として厚生労働省に認可された医療用材料である。
それで、そのトラブルはどんなものだったかというと、カットグットによるものは、猫の避妊手術(卵巣子宮全摘出)の 7日後に、突然腹膜と腹筋の傷が開いて、内臓が皮下に脱出してしまったのである。 幸い皮膚はナイロンで縫合してあり、すでに癒合していたので、速やかな対応により生命の危機は免れたのであるが、それでもクライアントと私の双方が感じた ストレスはかなりものであった。
これはカットグットの蛋白質に生体が異常に反応して、傷が癒合せず。 かえってカットグットを食細胞が処理して弱くしてしまった結果であろうと推察された。
次に絹糸によるトラブルであるが、これらはいずれも卵巣子宮全摘出後かなりの時間が経過してから、反応性肉芽腫という一見して腫瘍のような大きな塊が出来たものである。
私の動物病院で対応した腹壁に出来たもの (元になった手術は他院で行なわれたものである) はまだ治療がしやすかったが、大阪府立大学で目にしたところの腹腔内に卵巣動脈を結紮した絹糸に出来た反応性肉芽腫は、体重10キロそこそこのシェトラン ドシープドッグに赤ん坊の頭大の肉芽腫が出来、その内部が自壊して、汁が背中から出てくるというかなり悲惨なものであった。 これはOHS教授が自ら執刀して塊とその原因になった絹糸を除去したのであるが、血管を結紮した絹糸は小さなものであり、結構時間がかかっていた。
OHS教授によれば、絹糸も使用前に10分間くらいアルコールに漬けて脱脂しておくとそのようなトラブルは滅多に生 じないものであるということであるが、 これらの症例を経験して、私は体内に残置する縫合糸の材質にはこだわりを持たなければならないと強く感じた次第である。
現在、医療用縫合糸にはさまざまなものがある。 それらを大別すると、吸収性縫合糸と非吸収性縫合糸に分けられる。
吸収性縫合糸には、天然の材料である腸を使ったカットグット、合成材料であるポリグリコール酸(商品名デキソン、ケ イセイボンデック、オペポリックス)、ポリグラクチン(商品名バイクリル)、ポリグリコネート(商品名マキソン)、ポリジオキサノン(商品名PDS) などが存在する。
GPAHpで使用する吸収性縫合糸。 上からバイクリル、オペポリックス、PDS
非吸収性縫合糸には、天然材料である絹糸、合成材料であるナイロン(編み糸と単繊維がある)、ポリプロピレン(単繊維のみ)、ポリエチレン(編み糸) が存在する。
非吸収性縫合糸、最上段は体内に残さない皮膚を縫合するサプライロン。
次はポリプロピレン、ポリエチレン、ナイロンの順
これらの糸にはそれぞれいろいろな特徴がある。 すなわち、結び目の安定性、吸収糸の場合は生体内で解けて吸収されるまでの時間の長短などである。
あまり詳しく書くと非常に混乱してしまうので (もうすでに混乱しているのかもしれないが) 簡単に言うと、結局縫合糸には安全で、かつ手術がし易いものが良いということになる。 そうなると、絹糸やカットグットは如何に安価であろうと論外ということになる。
私は、血管の結紮や筋肉、皮下の縫合にはせいぜい3週間くらいで、もとい、3週間は十分な強度を保有している時間で、10週間で完全に吸収されてしまうポリグラクチンかポリグリコール酸を使用する。 特に血管の結紮のように結び目が緩むと即生命に関わるような場所にはもっとも高価であるが結節の安定性に優れたポリグラクチンを使用するし、結び目の緩みがすぐに致命的な結果にならないような場所には比較的安価なポリグリコール酸を使用するのである。
最近の製品であるが、従来結節が滑りやすかったポリグリコール酸で、オペポリックスという新しい製品は、結節形成時に滑りにくく、すごく使いやすいようである。 今度試してみようと考えている。
また、腹膜の縫合や腱の縫合のように、しばらくは糸がそこに残っていて欲しい場所にはポリジオキサノンを好んで使用している。 この糸は生体内では約6ヶ月間は十分な強度を有しているからである。
さらにほとんど永久的に糸が残って欲しい場合には、例えば腹壁ヘルニアや会陰ヘルニアの場合であるが、ポリプロピレンを使用することが多い。 ポリプロピレン単繊維は結び目の安定性が最も優れているからである。
ポリエチレンの編み糸は引っ張り強度については最も優れているのであるが、幾分滑りやすく結節の安定性に若干欠けるようにも思われる。 この糸は、膝の十字靭帯の手術の際に使うことが多い。
そして、私の使用するこれらの縫合糸は、値段についてはかなり高価ではあるが、生体内でのアレルギー反応が非常に生じ難く、安全なのでる。
安全にはコストがかかる。 そして、動物病院の仕事は、その内容が一般の人たちの目に触れにくい。 体重10キロ以下の犬に対して避妊手術を2万5千円でする動物病院と、3万5千円でする動物病院と、どちらが良心的でレベルの高い仕事をしているのかは、一見してわかり難いと思う。 しかし、麻酔の内容、使用する縫合糸の種類、術野術衣の消毒のレベルなどについて病院ごとに大きな差のあるのが、悲しいかな現在の動物医療の現実なのである。
あまりにも動物の生き死にを見慣れてしまった獣医師にとってはたかが犬猫かもしれないが、クライアントにとってはかけがえのない家族に施す手術について、獣医師はもっと説明責任を果たす必要があるのではないかと考える今日この頃である。
あなたも御愛犬や御愛猫の手術を受けられる際に、担当獣医師に使用する縫合糸について、質問されてみては如何ですか? その時の獣医師の反応は、きっと「このクライアントは侮れない」 という感じになると思いますよ。